箱根の坂(下)
世の中に行き詰まりを感じている人へ、あるいは、歳をとらない人へ
人々の血を吸う。それだけの家ではないか。血を吸いながら人々から尊貴だと思われ、足利一族も、そのあさましい所業をあさましいともおもわず、骨肉相争って世嗣のとりあいをし、たがいに殺しあい、ときには軍勢をかり催して民の家を焼き、田畑を踏みあらす。ついには、父母をもころす者が出てきた。ひとえに、ひとえにその魔性の家を嗣がんがためだ。それほど結構な家か。この世でもっとも汚れた恥ずべき家ではないか。
【私的概略】
応仁の乱の終わりから、戦国時代の幕開けに至る時代。
後に、北条早雲と呼ばれる人物が、日本で最初の戦国大名へと渋く成り上がっていくお話、上中下三巻の下巻。
今川氏親を駿河(静岡)の守護にすることに成功した早雲。妹の千萱も死に、自分の使命を果たしたことに気付きます。
北条早雲は次なる目標として、駿河の東隣、伊豆の堀越公方(足利氏)を討ち、悪しき世を打ち破る決意を固めます。後に関東のほぼ全域を支配することになる北条氏の、礎が築かれるまでのお話です。
【感想】
「日本国には政治というものがカケラも無い。ただ民衆から搾取するだけだ」この物語の北条早雲は、そのことについてあふれんばかりの憤りと熱い心を持っていながら、それを礼儀作法によって黙然と飼い慣らし、決して表に出さずに老齢を迎えた、そんな人物です。表に出さず自制し続けたためか、普通は大人になるとともに忘れてしまうはずのところを、熱い心は維持され続け、50歳を越えても少年じみた(いぶし銀ですが)雰囲気を持って描かれています。
うまく表現できないんですけど、そういう感じの人物です。
その憤りが、ついに火を噴くのが、上の「好きなセリフ」にも書いた、彼の独白です。
人々から敬われている足利将軍家といえども、ただ年貢を搾取するだけの民衆の敵だ、そのような足利家が高貴なはずがない、というようなことを言っています。私は、このセリフがかなり好きなのです。まるで、思春期の少年少女が世の中を嫌う時のようなセリフです。
「人々の血を吸う。それだけの家ではないか。血を吸いながら人々から尊貴だと思われ、足利一族も、そのあさましい所業をあさましいともおもわず、骨肉相争って世嗣のとりあいをし、たがいに殺しあい、ときには軍勢をかり催して民の家を焼き、田畑を踏みあらす。ついには、父母をもころす者が出てきた。ひとえに、ひとえにその魔性の家を嗣がんがためだ。それほど結構な家か。この世でもっとも汚れた恥ずべき家ではないか。乞食をみよ、人の胸にすがって食を乏う。よきものではないか。傀儡師をみよ、芸をして食を得る、たれに憚ることがある。足利家は乞食、傀儡師に恥じよ、恥じねば、一人残らず地獄に墜ちよ」
北条早雲が戦国大名になって相模の国(神奈川)を支配したのは、この憤りをもとに、(高貴な連中が全く行わなかった)良い政治を行おうとしたためである、というのがこの物語の筋立てです。
私も思春期の頃、似たような嫌悪感を持ったことがあります。大人になってそれが消えたのは普通ですが、しかし消えた原因は何だったかな、と振り返ると、(自分の間違いに気付いたから、というのもありますが)そんなことに神経を尖らせるのが面倒になった、というのもあるな、と思うのです。
早雲は、憤りをナアナアにせず人生の命題にして、あまつさえ実地に解決しようとしたところに、私はなんともまぶしさを覚えるのであります。
永遠の思春期少年だったわけです(いぶし銀だけど)。だからこそ、当時としては異例なほどの高齢まで生き続けたわけです。そして、そういう強烈さを持った人物が登場するのが、司馬遼太郎の歴史小説なわけです。現代にいそうな人物なんぞ、歴史小説で読んでもツマらないわけで、司馬遼太郎作品を読んでいて引き込まれる理由は、こんな強烈な人物設定が原因なわけです。
最後に付けたりですが、
この作品の早雲の特長は上記の他に、自己愛の少なさ、淡泊さ、職人肌、おせっかいなほどの師匠っぽさ、というのがあります。
私は、(この作品の)北条早雲が大好きなので、思春期少年はマネできませんが、その他の特徴はマネしたいと、普段の仕事の時はキモに銘じています。
【私的評価】
電車の中で気軽に読めるか…5/5点
読後に何かが残った感じがするか…5/5点(黙然とした外面の中に熱い心を持つ感じはマネしたい)
繰り返し読めるか…4/5点(間を空ければ読める)
総合…5/5点